Saturday, 23 September 2017

随笔 - いえなくても

いえないきもちがあるとき、ほかのひとがよめないげんごでかいて、とうこうしたいの、そんなおもいがでることがあります。

いえないから、いいさえすればおちついて、ホッとするとおもってます。

そういうはずです。

おかしいじゃないですか。おしえたくないなら、なぜ、ソーシャルメディアにシェアしますか。グーグルでほんやくすれば、まちがいがあっても、たぶんわかるんでしょう?にっきにかくとか、こどもたちようにきのあなにつたえるとか、そうしたほうがいいじゃないですか

ぼくが、ホントにおかしいですね。

ぼくたちは、ずっと、だましてばかりいます。じぶんにも、みんなにも。いいたくないわけではありません、こわいんだけです。

だからだれもしらないところにかくしています。それはもんだいをかいけつできないのはわかってても、だれか、あるいは、あのひとがなんとかわかってくれてほしいです。

そしたら?みんながどうおもうかわかりません。きらうとか、ことわるとか、さけるとか。このようになったらどうしますか。

ですからいつもにげてにげて、にげればにげるほど、そのかんじょうがどんどんつよくなりました。どんなちいさなことでもよろこばれて、かなしまれて。

でも、いままでも、それがホントのきもちかどうかわかりません。

わたしたちをしばるすべてのものから、めにみえないちいさないたみから、いつのひか、ときはなたれて。ときにないても、わらっていけますように。(にげるははじだがやくにたつ,2016)

No comments:

Post a Comment